
強い使命感

それは高校生活が終わりに近づいたある日、母親が悲しげに口にした一言から始まりました。
「あなたがもっと早く生まれていたらよかったのにねえ。」バーサ・ウェンツは、息子のマイロンが医学の道に進むと宣言した時に言ったのです。
「あなただったら何とかしてお父さんを長生きさせてくれたでしょうに。」
人類のための偉大な貢献は、常に力強い意欲に後押しされた欲求から生まれます。
若きマイロン・ウェンツの生涯の原動力はこの瞬間に生まれました。
「私は17歳のときに父を亡くしました。」ユサナの創立者兼会長であるウェンツ博士は当時を振り返ります。
「人生で一番忘れられない出来事でした。私は本当に父に認めてもらいたくて、もしかしたら今でも父の死を償おうとしているのかもしれません。でも誰しもそうであるように、10代の頃はあまり父と一緒に過ごそうとしなかったのです。父と過ごす時間はかけがえのないものと気づいた時には、父は亡くなってました。
そのことが私の心に、父を奪われたという傷を負わせたのだと思います。」
この傷を背負って生きるのは辛いことですが、この傷こそが、生涯を研究に捧げ健康と栄養の分野において革新をもたらした博士の原動力となったのです。
そして、今も続く進歩が世界中の多くの人たちに恩恵をもたらしているのです。
実り多い人生のルーツ
父親を高校時代に亡くしましたが、ウェンツ博士はすばらしい両親のもとで育ちました。
「私はとても愛情に恵まれていました。」博士は言います。
博士の両親は、成長期の大切な時期にひとりひとりに十分な注意を払えるようにと、3人の子供の年齢を離してもうけました。
「マービンは私より14歳上で、チャールズは7、8歳上です。それぞれが『一人っ子』のように育ち、私も手を掛けてもらいました。
両親はとても仲がよく、子供たちにも愛情をそそいでくれました。」
ウェンツ博士は1940年に生まれ、ノースダコタ州にある人口1,000人の小さな町ナポレオンで育ちました。
父アダムと母バーサはドイツ系で、ふたりともナポレオンの近郊で12人兄弟の中で育ちました。
ふたりの先祖は何世代か前、ロシア帝国がドイツの農民にロシア南部への移民を奨励していた時代に、ドイツを出てロシアの南部に移り住みました。
その後、ロシアにナショナリズムが台頭し、ロシアを離れることを余儀なくされてアメリカに渡り、19世紀末にノースダコタに居を構えたのです。
「私の先祖は、ロシアに移住してもずっと祖国の文化や食習慣を守り、ドイツ語も使い続けてきました。
ここに移り住んでからもそうでした。私が小さかったころ祖母がドイツ語を話していたのを覚えています。」とウェンツ博士は話します。
博士の勤勉な先祖がロシアからアメリカにもたらした影響はほとんどないのですが、ロシアの人々には愛着を感じると博士は言います。
その気持ちゆえに、モスクワの医学研究に資金を提供したり、ロシア人の研究者をユサナの栄養学の研究に迎えたりしているのです。
当時ノースダコタのその地域ではほとんどの人が農家でしたが、ウェンツ博士の父親も農業を営んでいました。
しかし、他の人たちとは違い、事業家でもあったのです。博士は言います。
「父は農業だけでは物足りなくて、弟と一緒に事業をはじめました。金物店から始まって家具店、そしてジョン・ディアーの農機具の店を買い取り、フォードの代理店にもなりました。」
こうした事業のおかげで、ウェンツ一家は、マイロンが生まれる6年程前に、郊外の農地から町に引っ越しました。
ナポレオンの町に暮らしながら郊外に農地を持つ「通勤農家」になりました。
家は質素で、その当時の町内の人々と同様、水道も屋内トイレもありませんでした。
幼いころのマイロン・ウェンツの生活は、平凡ではありましたが幸せでした。
「マイロンはまじめな子供でした。」兄のマービンは言います。「でも楽しみ方は知っていました。スター選手ではありませんでしたがスポーツが大好きで、校内のチーム全部に入っていました。音楽も好きで、バンドで演奏したりコーラスで歌ったりしていました。とてもいい声をしていますよ。」
この頃からすでに博士は、活発で行動力のある子供でした。音楽やスポーツだけでなく、毎年クラス委員を務め、卒業アルバムの編集委員にもなりました。
マービンは、「マイロンは、小さい頃は目立つ生徒ではありませんでしたが、高校では優秀で大学を卒業する頃には何か大きなことをしたいと真剣に考えていました。」と話します。
近年、ウェンツ博士は出身高校の最優秀卒業生として表彰され、ノースダコタ大学から最高の栄誉を受けました。
バーサ・ウェンツは敬虔なクリスチャンで、息子たちを毎週日曜日の礼拝や教会の集会に通わせました。
バーサは博士に牧師になってほしいと思っていたそうです。一家は地区の福音教会の信者で、博士が子供のころは毎年夏になると教会のキャンプに行き、ボーイスカウトのリーダーも務めました。
尊敬できる両親の愛に包まれた暖かい家庭でした。
「父は寛大で思いやりがあり、とても尊敬されていました。」とウェンツ博士は胸をはります。
「大学の休みに帰省してカモ狩りなどに行くと、どこの農場や店でも私がアダム・ウェンツの息子だというと、父が死んで何年も経つのにみんなとても歓迎してくれました。その地区のみんなが父に助けてもらったり親切にされていたのかわかりませんが、父をとても尊敬していたようでした。」
「だからこそ一層、若い頃に父を亡くしたことが辛かったのです。父は57歳の時に心臓病で亡くなりましたが、私の記憶にある父はすでに心臓病を患っていて、入院したり長期療養施設に入ったりを繰り返していました。」
博士の他の身内も悪性疾患で亡くなりました。父方も母方もほとんどの叔父や叔母がガンや心臓病で命を落とすのを博士は見てきました。
博士の母親バーサも60代で乳ガンにかかり手術をし、放射線療法と化学療法に耐えました。
「母は本当にがんばって、ガンと戦いました。」ウェンツ博士は話します。
「母はガンと戦い、つらい治療にもよく耐えました。」ガンはさらに兄のチャールズにも襲いかかり、66歳の命を奪いました。
「悪性疾患は文字通り私の家族の『ガン』なのです。」
正面から問題に立ち向かう
問題の解決方法は人によって異なります。降参してしまう人もいれば、否定したり、目をそむけてしまう人もいます。
そして、覚悟を決めて戦って打ち勝つ人がいます。
マイロン・ウェンツ博士がそうです。博士は悪性疾患と正面から対決して、それに打ち勝つために全力を尽くすことを生涯の仕事としました。
ウェンツ博士はイリノイ州のネーパービルのノース・セントラル・カレッジに学び、1963年に生物学と医学部進学課程を修了しました。
「同期のほとんどは、医学部進学課程の後医学部に進みました。」と博士は回想します。
「それもひとつの道でした。でも、人と同じことをするのは嫌だったので、自分がいいと思う方に進むことにしました。
医学部に進んで医者として出世するよりも、医療を使う側でなく、治療法を開発して医療に貢献したいと思ったのです。」
医学部に進まないと決めた後、1年間大学から離れ、目標達成のために一番よい道を見きわめることにしました。
その間、博士は細菌研究者として働き、感染症研究の道に進むことにしました。
「そこでノースダコタ大学の大学院に入学し、細菌研究の仕事をしながら、微生物学修士の学位を取得しました。」
「20世紀初頭、死亡原因の上位5つはすべて感染症でした。20世紀の間に悪性疾患が急増したのです。」
当時学生時代からの恋人ジャッキーと結婚していたウェンツ博士はさらなる研究への熱意を抱き、微生物学の博士号を得るために、ソルトレークシティのユタ大学に進みました。
博士は免疫学に興味をそそられ、その分野では国内最高のレベルを誇っていたこの大学を選びました。
大学では、その専門分野で名高い教授の下で学ぶことができました。
免疫学を専門に学び、腫瘍免疫学の論文で微生物学の博士号を取得したのち、イリノイ州ペオリアの病理学研究グループに入りました。
「私は医学部のカリキュラムはすべて受けていましたが、当時は博士号を持っている人が、医師のグループのメンバーになるのは珍しいことでした。」
博士はグループの感染症専門家として、ペオリア地区にある3つの病院の微生物学と免疫学に関連する検査業務を統括しました。
人生の転機
研究グループに3年間勤めたあと、ウェンツ博士はさらに医学に貢献する好機を見い出しました。
当時研究室で発見できたウィルス性疾患は肝炎と風疹だけでした。そこで博士は、それ以外のウィルス感染症の検査方法の開発を試みることにしました。
成功すれば、従来の方法よりもずっと早く、患者が病院からでる前に臨床医に検査結果を報告できると考えたのです。
博士はペオリアのグループを辞めユタ州のソルトレークシティに戻りました。
そこでは細胞培養などの設備の整った研究所が売りに出されていました。
「持っているものはすべて売りました。中小企業局から4万ドルを借り、ウィルス診断の開発に必要な器具をそろえました。
大手の製薬会社が何年も研究していることをやろうとしているのは承知の上でした。
なぜか製薬会社の研究は進んでいませんでしたが、私は、医療上必要なウィルスをすべて培養して、そのウィルスが引き起こす疾患の検査方法を開発しようと決心しました。そして、それを実現したのです。」
博士は1974年9月、個人経営のガル研究所を設立しました。
2年半後の1977年6月、博士の開発したウィルス診断検査のいくつかがFDAの認可を受け、販売できるようになりました。
博士はまずヘルペスのウィルスに注目し、そのうちのいくつかについて検査方法を開発しました。
「この種のものでは最初に発売された製品でした。しかし、もっとも話題を集めたのはエプスタイン・バー・ウィルスの検査方法でした。
世界が、中でもヨーロッパはこれを待ち望んでおり、おかげで会社は大きな成功を収めました。
私が開発した検査方法は30種類以上ありますが、エプスタイン・バー・ウィルスの検査法により私の名前が医療診断分野で知られるようになりました。
だれも真似ることのできない検査方法だったのです。
今日に至るまでウィルス診断の絶対的な基準になっています。」
ユサナの誕生
それから数年が経ち、博士は悪性疾患との戦いに全力を尽くす時期がきたと強く感じるようになりました。
仕事からくるストレスとプレッシャーで自身の健康を害したことがきっかけとなり、博士は決心を固めました。
そして、ガル研究所の経営権をドイツの大手医療器具メーカーに2,170万ドルで売却しました。
1992年ウェンツ博士は類ないほど深い細胞培養の専門知識を携え、細胞レベルから栄養をとることが大切であるという信念のもと、ユサナを設立し、栄養補助食品の開発をはじめました。
ガンや心臓病など悪性疾患の治療は薬と外科手術で行うのが常識であった世界にいながら、博士はなぜ栄養補助食品を選んだのでしょうか。
「悪性疾患の予防や治療において私たちが取れる最も有効な手段は、体に正しい栄養を与えることだけなのだと信じるようになっていました。
現代の食生活では足りない大切な栄養素を補い、体の中の抗酸化システムでは対応できない有害な環境から発生するフリーラジカルに対抗するのです。」
現在では理解の差はあれ、同じように考える人が増えてきました。しかし、ウェンツ博士の栄養摂取の考え方は、一つ一つの細胞という最も基本的な部分から出発しています。
「ガル研究所では、最高のウィルス検査法を開発するために最高の抗原を作る必要がありました。
しかし、ウィルスが繁殖するためにはそれを宿す細胞が必要です。健康で完全に機能する細胞がないと良いウィルスを培養することはできません。
人間の細胞に適切な栄養を与えることで、変質したり病気にかかったりせず、いつまでも健康に保つことができるということを発見しました。
栄養を与えれば、ダメージを受けたり変質した細胞も健康を取り戻すことができたのです。」と博士は言います。
細胞を健康に保つためのより良い栄養システムを開発する中で、ウェンツ博士が得た確信はこのようなものでした。
「正しい栄養摂取という原理は普遍的なものです。
毎日正しい用法・用量を守り、バランスよく必要な栄養素を総合的に体に与えることができるなら、長期にわたって健康を保って悪性疾患を予防することができます。
結局、健康というのは細胞レベルから考えなくてはならないのです。」
今日ほど最適な栄養摂取が切実に求められている時代はありません。
博士は言います。
「今世紀に入って人類が作り出した合成化学物質や薬品、公害、ストレスなどによる有害物質から排出されるフリーラジカルの量は膨大なもので、私たちが食物から摂取する栄養素や生来の抗酸化物質だけでは太刀打ちできません。
日々溢れ出る大量のフリーラジカルの連鎖反応を止めることは、体の中の抗酸化システムにはできないのです。」
「ですから私たちは、祖父母や親の時代よりも優れた栄養を摂取することが必要なのです。
政府が定めた栄養所要量よりもはるかに多くの天然抗酸化食品を摂取しなければなりません。
身体には食品から摂取できる量より多くの栄養素が必要なので、サプリメントが必要なのです。
ユサナの栄養補助食品を発売した当時、医学や栄養学の専門家に考えが過激だと言われました。過剰に摂取するのはかえって有害だと考えていたのです。
しかし、数年たって結果を見た彼らは、私が正しかったと認めてくれています。」
ユサナに出会って人生が変わったというユサナ・ファミリーがどんどん増えている事実を持ち出すまでもなく、ユサナの驚くべき成長を見れば、ウェンツ博士の考えがまさに正しく、博士が開発した栄養補助食品が有効だということがわかります。
サノビブ:勇気ある新たな一歩
ウェンツ博士はできるだけ多くの人の健康を改善しようと考える中で、栄養補給の分野をさらに進歩させ、その重要性が世界中で理解され受け入れられなければならないと考えるようになりました。
その結果、ジョージア州アトランタに女性のためのウェルネスセンターを開くことにしました。
それは、従来の西洋医学と代替医学を統合して、栄養補給の重要性を踏まえた知的で効果の高いケアの形を作ろうという試みでした。
このコンセプトをさらに進め、博士はサノビブを設立しました。それは、博士にとって至宝ともいえるものでした。
この輝かしい、新しいコンセプトに基づいた総合ウェルネスセンターは、世界でもっとも魅力的な海辺にまるで白い鳩が羽を休めているように立っています。
メキシコのロサリト・ビーチの南、以前はリーバイ・ストラウスの邸宅があった場所にサノビブはあります。
サノビブはすべてウェンツ博士が出資し、博士の精神を体現しています。
「サノビブは研究、教育そして治療のための施設です。
さまざまな病気に悩む人々が紹介を受けて診察に訪れ、管理の行き届いた環境の中で治療を受けるのです。」
サノビブは先端を行く医療の形であるとメキシコ政府も認めており、こうした施設をメキシコでも増やしていく方向で考えています。
「悪性疾患の予防と治療に関していま世界が求めている答えの多くが、この場所で見つかるだろうと私は確信しています。
栄養摂取がユサナの一番の基礎ですが、生きている間に蓄積した毒性物質をどうやって体から取り除くかの研究も現在行っています。」
「サノビブが他では得られない健康と癒しの場となると確信しています。
私は優秀な研究者と医師とともに、ガンを一番の課題として取り上げながら、病気の謎を解き明かし、すべての悪性疾患と戦うために必要な答えを見つけていきます。」と
博士は言います。
細部にわたる完璧主義
ウェンツ博士は細部にまでこだわる人物ですが、それを最も反映しているのがサノビブです。
博士は有害物質のまったくない環境を作ることを目指し、それはとても「ウェンツらしい」と言われました。
自分が納得するものしか受け入れなかったのです。
この特別な施設のために、カーペットから塗料、布地、絶縁体、浄水器に至るまですべてを、有害物質をまったく含まないものにこだわりました。
ラミネート板を貼り付ける接着剤までも、施設の建設に使うものは有害物質ゼロのものでした。
博士の妥協を許さない基準に合う家具や木工製品を求めて、2つの家具メーカーに注文して作らせたのです。
大学院時代からウェンツ博士と付き合いがあるユサナの上級研究員ジョン・マクドナルドは言います。
「ウェンツ博士はディテールにまで目を配る人です。かつてはすべての注文書に自分でサインしていたものです。
ユサナが設立して1年経ち会社が大きくなってやっていられなくなるまで、続けていました。変人だと思うかもしれません。
でも、博士はガル研究所を一から立ち上げたのです。慎重で几帳面な人間なのですよ。」
ウェンツ博士のもとで何年も働いているユサナの上級テクニカルライター、ピーター・ヴァン・デューサーも同意しています。
「博士は自分でやりたがるタイプなのです。私が博士のスピーチや記事を書く際には、博士は一語一語に神経を尖らせます。
すべてが正確でないと気がすまないのです。また一方で、自分の思うところを文字にも反映させようとします。
博士は真実に忠実であることをとても重視しているのです。」
少なくともウェンツ博士のこうした傾向は、几帳面さによるものです。マクドナルド博士は言います。
「博士は、歩いていて床に落ちている小さな紙切れでも見つけようものならすぐ拾いますよ。
ウェンツ博士に頼まれてあるCEO(最高経営責任者)とのミーティングに同席したときのことなんですが、
そのCEOと私はデスクを挟んで博士と向き合って座っていたんです。暑くなってきたので、私はスーツのジャケットを脱いで、隣の椅子にかけました。
5分ほどたつと、博士が立ち上がって、私のほうにやって来ると、私のジャケットを取り上げ、ハンガーに掛けてから洋服掛けに掛けたのです。
そのときは本当にびっくりしましたが、あとで考えてみると、なるほどと思いました。
その後、その時同席していたCEOが私に耳打ちしたのです。
『そういえば、私が初めて博士にお会いした時も同じ事をされましたよ。私は何かの上にジャケットを置いたんですが、あの人はそれを見逃さなかったのです。
博士は話を続けながら、
デスクを回ってやって来て、私のジャケットを取り上げ、それを掛けてからまた自分の席に戻ったんですよ。』
「マイロンは何でもきちんとしておかないと気が済まないのです。」と言うのはウェンツ博士の兄マービンです。
「几帳面で、本当に完璧主義者ですよ。」
富の使いみち
「研究に必要なだけあれば、それ以上のお金には興味がありません。」とウェンツ博士は言います。
「研究を進めるかどうかの判断を政府に仰がなければならない研究には興味を持てないのです。
自分がやらなければならないと感じることに必要な経費は自分で出したいと思うたちで、実際そうしてきました。
私が行ってきた研究費用はすべて自分で賄ってきました。」
「私は運がよかったのか、それとも、自然の摂理なのかもしれません。人類に恩恵をもたらす価値のあるもの、他の研究者が作れないものを作ることができて多少のビジネスセンスがあれば、お金は入ってくるものなのでしょう。」
博士は自分がビジネスマンだとは思っていません。少しビジネスセンスがある研究者だと考えています。
博士がやってきたことを長い間見てきたヴァン・デューサーも、博士が典型的な創立者や会長ではないと言っています。
「本質的にはビジネスマンだとは思いません。研究者であり起業家であるといったほうがいいでしょう。これはビジネスマンとは違うと私は思います。
CEOというタイプでもありません。彼は自分でやりがたがる人間です。序列や出世よりも、ただ物事をやり遂げることに興味を持っているんです。」
典型的な経営者であるかどうかは別として、研究者ウェンツ博士は素晴らしいビジネスの才能を持っています。
その才能のおかげで、数年前博士は、これまでに受けた栄誉や賞は数々ありますが、
中小企業局の諮問グループの座長に選ばれました。「私は優秀なビジネスマンだと思われているようですが、経営学についてはまったく勉強したことがないのですよ。」
と博士は打ち明けます。「ただひとつ受けたといっていいビジネス教育はティーンエージャーの頃でした。
父が私に言ったことで、ビジネスマンになるよりも農業をするほうがずっと難しいという言葉があります。
天に向かって晴れろとか雨を降らせろとかいうことはできないでしょう。
『でもビジネスだったら、使うお金以上に稼げばいいんだよ。』と父は言いました。
私が守ってきたルールはそれだけなのですが、それでうまくいきました。
少なくとも私の場合はね。」と博士は笑います。
語らないやさしさ
ケイ・ギレンがウェンツ博士と知り合ったのは1975年のことでした。ケイは博士の親しい友人で、亡くなったケイの夫も
親しくしていました。「マイロン・ウェンツほどやさしい人はいません。」ケイは言い切ります。
「マイロンは本当に人のためになりたいと思っています。マイロンがやってきたビジネスはすべて、人々に元気でそして健康でいてほしいという強い願いから出発しているのです。」
「こう言うとマイロンは照れると思いますけれど、あの人が今まで誰かを助けることを拒んだのを見たことがありません。
相手が過去にマイロンに対してどんなことをしたにしてもです。人を恨むこともないのです。マイロンはいつも、誰かをよく思わなくても何も言うなと言います。彼は人のために何かをしてあげたと言いふらすこともありません。
まったく口に出さないのです。あるとき、マイロンを誇りに思うと言ったことがあります。彼は照れくさそうにして、ただ肩をすくめただけでした。あの人は世界一大きくてあたたかいハートの持ち主です。」
マービン・ウェンツも言います。
「マイロンは時間とお金を惜しみません。収入があまり多くない頃でも、母の面倒を見てくれました。母が運転できなくなるまで、母に車を買ってあげていました。
私はマイロンから土地を借りたので、その代金を小切手で送ろうとしたのですが、マイロンは受けとらなかったのです。
今現在も、私から借地料を受けとろうとしないのですよ。」
ウェンツ博士のやさしさは本物です。マービンは言います。「マイロンは偏見を持ちません。どんな人でもひとりの人間として見ます。
私が偏見じみたことを言おうものなら、すぐ私に説教するのですよ。」
情熱
博士はあまり趣味の時間をもたないのですが、仕事以外にも関心を寄せ情熱を傾けていることがあります。
「音楽はずっと好きでした。」博士は言います。
「特にコーラスが好きですね。音楽のおかげで宗教にも関わるようになりました。
時間が許す限り、どんな教会でも聖歌隊で歌うことにしています。旅先で、たとえば日曜日にヨーロッパにいたら、その地区で一番の聖歌隊のあるカテドラルに行くでしょうね。」
「もう一つ好きなことは、人類のために本当に役に立つことをした偉人について学ぶことです。
高校時代から小説を読んだことはありませんし、また読もうとも思いません。科学関係の本で読まなければならないものがたくさんあるからです。
映画も観ません。座っていると罪悪感を持ってしまうのです。遊んでいる感じがして落ちつかないのですね。」
宗教に積極的に参加しているわけではありませんが、ウェンツ博士はとても精神的なことを大切にする人です。
それが、博士の強い情熱を支えています。母親がかつて望んだような聖職者にはならなかったのですが、博士は「私は医学を通して人々のニーズにこたえる聖職者なのです。」と言います。全能というわけにはいきませんが、命をかけてやるべきことはこれだと信じています。
家族:最も大切なもの
ウェンツ博士が人生で大切にしているものの中で、もっとも大切なものは家族です。
ジャッキーとは何年も前に離婚しましたが、博士は常に二人の子供、デビッドとジュリーの良き父親で、二人の生活に深く関わりを持ってきました。
子供の話をはじめると、博士の表情は一変して、いつも見うけられる固い意思や思慮深さがやわらかくほぐれて、本当に楽しそうな表情をするのです。
「子供たちを心から愛しています。」博士ははっきり言います。
「ユサナの成功の影にはデビッドの協力がありました。思慮深くやさしい、すばらしい若者です。大変なときにはいつも私を助けてくれました。」
「ジュリーは独立しています。私に似て、自立心が強く、自由な精神の持ち主です。ホテルやレストラン経営を大学で学びましたが、今は芸術の方面に進み充実した生活をしています。」
ケイ・ギレンは古くからの親しい友人として、こう言っています。「私はマイロンの隠された一面を知っているのですよ。
子供は彼の喜びで、子供たちを深く愛しています。子供たちも素晴らしい子に成長しました。
息子のサッカーやバレーボールをしている姿を見るのが彼は大好きで、デビッドはパパからバレーボールの奨学金をもらっているんだね、なんて私たちはよく言ったものです。
愛情を注ぐことは子供を甘やかすことにはなりません。マイロンの子供たちは愛されていました。そして今も愛されています。」
「ジュリーが赤ん坊だったころ、私たちはそれぞれの夫婦連れ立ってよく出かけましたが、そんな時マイロンは夜中に起きてジュリーの面倒を見ることを厭いませんでした。
ジュリーをあやして、着替えをさせ、やさしく話し掛けたものです。あの人のこんな一面を見たことのある人はほとんどいないでしょうね。」
やり遂げるために全力を尽くす
人が長く生きられるようにすることが博士の夢なのです。その夢の実現のために博士は休みなく働いています。
ユサナを率いる傍ら、サノビブのプロジェクトにも多くの時間をかけました。「博士は常に働いていますよ。」博士付きアシスタントのB・J・スネダカーは言います。
「目を覚ましている限り、働いているのです。」
そんなペースで働くことができるのは、並はずれたエネルギーの持ち主だからだと思うかもしれません。
しかし、ウェンツ博士によると違うようです。それは「強い使命感」です。「時間が足りない、やるべきことをやるためには人生は短すぎるといつも感じてきました。」
博士は言います。「父を助けるには遅すぎました。母を助けるのにも間に合いませんでした。しかし、こう生きたいと思う生き方を人々ができるようにすることに、つまり人々の健康に今は貢献していると思います。
早過ぎる死や病気で命を縮めることなく、天寿を全うすることに役に立っていると思っています。」
ウェンツ博士は毎日、日没の時間になると、仕事の手を休め、外に出て黙って夕日を眺めます。
個人的な儀式のようなものです。博士は言います。
「深く考えたことはありませんが、その時間、ゆっくり考え一日を振り返るのです。その日何をやり遂げたかを見直し、満足しているかどうかを考えます。
できることは全部やったかと自問します。そして、まだ残っている仕事に思いをはせるのです。」